田主丸は巨峰の産地

耳納連山が広がる福岡県久留米市田主丸

先日まわった北野天満宮近くの3軒の蔵元からさらに車を進め、筑後川沿い走ると、福岡県久留米市田主丸にたどり着いた。田主丸といったら、耳納連山が広がる緑豊かな地で、巨峰の産地としても知られる。

田主丸は全国有数の巨峰の産地

以前といってもかなり前だが、地域の資源を発掘しその魅力を発信している知り合いから1冊の本をいただいた。「巨峰物語 巨峰を愛し 守り続けた田主丸の人びと その涙と苦闘の半世紀」という本だ。平成19年9月に巨峰開植五〇周年記念実行委員らによって発行。その本の中に1枚の紙が入っていた。「巨峰の苗と縁あって昭和32年田主丸にもたらされましたが、当時は『欠陥果実』と市場から相手にされず、その販路を『観光ぶどう狩り』という逆転の発想で切り開き、全国でも類を見ない巨峰の産地となるまでの、涙と苦闘の先人の軌跡を振り返り、その歴史を風化させることなく、後世に語り継ぐため、巨峰開植50周年記念にあたり『巨峰物語』を発刊いたしました」。

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田主丸が歩んだ巨峰の歴史を、紹介したい。

昭和17年、伊豆で産声をあげた一房のぶどう     日本一の富士にちなんで、「巨峰」と名付けられた。

昭和17年、静岡県中伊豆町で大井上康氏の手によって誕生した巨峰だが、当時は花が落ち実がなりにくいと「落第果実」の烙印を押されていたそうだ。大井上氏は、栄養週期説を米、麦の増産に役に立てようと栄養週期運動をしていたこともあり、昭和23年にはその講演で田主丸を訪れたことがあるという。その時は、まだ田主丸と巨峰は結びついていなかった。昭和26年に大井上氏は息を引き取るのだが、その直前、最後の最後までぶどうの話をしていたのが、越智通重氏。その越智氏こそが、田主丸に巨峰を持ち込んだ張本人だ。

昭和31年、農民の農民による農民のための研究所  「九州理農研究所」を設立。

その後、小倉の農場に勤めていた越智氏。当時、稲作中心の農業だったが、次第に果樹栽培へと切り替える人も出始めていた。そこで、田主丸の青年たちは、果樹の専門家だった越智氏から指導を受けていた。昭和31年になると、越智氏招き、農民の、農民による、農民のための研究所である「九州理農研究所」を設立。何度も田主丸を訪れていた越智氏は、田主丸の砂礫質の土壌に、果樹栽培の適性を見い出していた。それに加え、耳納連山の風景、そこに暮らす人々の懐深さに惹かれたに違いない。

ちなみに、田主丸には、楽丸酒造、叡林酒造、紅乙女酒造の3つの焼酎蔵と、この次に紹介する日本酒蔵・若竹屋酒造場があるのだが、研究所の土地は、若竹屋12代目林田博行氏によって提供された。「いい酒米をつくるためにもお願いできないか」との言葉に心動かされ、快諾したそうだ。

昭和32年、はじめて田主丸で巨峰の開植が行われる。

全国各地で栽培に取り組むものの、まだ成功した産地がなかった巨峰。昭和32年、はじめて田主丸で5人の手によって巨峰が植えられた。越智氏の熱心な指導の甲斐あって、3年後には見事な実をつけ、昭和36年には80人近くが巨峰栽培を行うようになった。甘くておいしい巨峰だが、売るのに苦労した。そこで、行われたのが、園主の説明を聞き、試食を食べ、巨峰をお土産として持ち帰る巨峰狩りであった。巨峰は評判となり、田主丸は巨峰の産地となった。

田主丸の巨峰でつくられた巨峰ワイン。

田主丸ではじめて巨峰を植え付けた5人の中の一人が、研究所の土地を提供した若竹屋12代目林田博行氏。「巨峰が売れんかったら、いつかワインの原料として買い上げる」と口にしていた。昭和47年、若竹屋13代目の林田伝兵衛氏によって巨峰ワインが完成。現在、巨峰ワインのワイナリーでは、さまざまなワインがつくられ、試飲や食事できる。

 改めてこの本を読み返してみて、どの土地にもその土地を愛しその土地の未来を信じ可能性を見出した先人がいることを実感した。さて、巨峰ワインのワイナリーで一息つき、話の中に何度か出てきた若竹屋酒造場へと向かう。

巨峰ワイン(ワイナリー)

住所:福岡県久留米市田主丸町益生田246-1

電話:0943-72-2382

営業時間:9:00~17:00

定休日:年末年始

和食に合う巨峰葡萄酒をはじめ、ブルーベリーワイン、あまおうワインなどもある。

 

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