芸術の秋。舞台に立川談春。此処は熊本県立劇場。
ちょいと昔に書いた。芝濱の落とし噺。喜多屋浅草別邸の原澤さんの影響を多分に受け、落語にはまった。車の移動が多い日常だが、それ以来BGMは落語。初めて聞いたのは、歌舞伎座での親子会。立川談春が立川談志に芝浜をぶつけた会だった。そして、それから立川談志の芝濱を聞いた。それを踏まえて、再度、立川談春の芝濱を聞いた。立川談春が立川一門に入ろうと思ったのも、立川談志の芝濱。全くのズブの素人である筆者が、落語に心奪われたのもこの2名の芝濱。それを熊本でまさか聞けるなんて、夢にも思わなかった。ありがたい機会だった。
昔も書いたが、再度流れを。
芝濱。三遊亭圓朝の三題噺から誕生した。テーマは、「酔っぱらい」「芝浜」「革財布」。魚屋の勝五郎と女房。三代目桂三木助が改作し一躍メジャーに。本来は、芝浜の描写を魅せつけるところが一番の見せ場であったらしい。が、筆者が心奪われたのは、立川談志の芝濱。その人情噺。女房の告白するその姿に、談志なのに、談志の姿なのに、談志の声なのに。見たことない魚屋の女房が現れ出た。もらい泣きするんじゃないか?というぐらいの芸を見た。憑依芸っていう言葉で片付けられるものではないが、憑依している。そして、そのあと談春の芝濱を見た。これまたスゴい。談志とは違う。談春が演じる女房が現れた。これまでの人生。落語家に一切興味関心なかったが、これはすごい芸をみた。心震える感動だった。
これがその当時の感動を伝えた文章である。
立川談春が熊本劇場で披露した芝濱。
その流れを文字にすることは粋じゃない。伊達と酔狂の世界である。そんな野暮なことは。話の流れを知っていること前提で、立川談春が披露した芝濱の筆者の感想のみ記載してみる。
芝濱の描写はない。
なんと芝濱の描写はない。回想で少しあるものの。本来の流れでは出てこない。まさに伊達と酔狂。煙草に火をつけ、紫煙を燻らすシーンは全カット。古典落語を守るということは伝統であり伝承ではない。芝浜の描写ごときにこだわっていたらダメだ。っていう決意の現れなのか?
江戸の風を吹かせる。
これも昨今の立川談春の文章、インタビューでよく耳にする言葉であるが、落語を話すことができる人が落語家ではない。落語っていうのは江戸の風を吹かせないといけない。その言葉が体感できる。そして本来であれば、芝浜の描写が一番伝えやすいはずだが、そこは削り、それ以外の描写に風を吹かせた。
盃が見えていた。
博多日本酒吟醸香だからというわけではないが、酔っぱらいの勝五郎を演じる立川談春。盃が見えていた。無論、ホントに持っているわけはない、当然ながら。ただずっと盃が見えていた。また、これまでの芝濱で演じられる勝五郎の中で、一番酒好きに見えた。
まだまだ書きたいことはいっぱいあるが。今回の芝濱。進化を感じたし、道を極めし人の力強さに、憧れた。まだまだ、筆者にもやらないといけないことが多い。信じて進むのみである。
枕で話題になっていた坊さんが育たないという噺。立川談春の弟子がいなくなったという噺。落語家は900人。誰も辞めずに食っていけるという噺。「滅私奉公」こんな言葉を使えない時代に確実に進みながら、信じた道を邁進するしかないのだろう。